【講演】いのちの授業(豊橋北ロータリークラブ)

20140128_toyohashikita_1.jpg豊橋市民センター 朝倉三恵 様

皆さんこんにちは。朝倉三恵と申します。
漢数字の三に恵むと書いて「みつえ」と言います。
名前の通り「三」人の男の子に「恵」まれましたが、長男の将(まさし)が2 歳の時に、神経芽腫という小児ガンと診断されました。
そして天国に旅立ってしまったのが7歳の時です。今から約3 年前のことになります。
長男将の生き様から、自分が感じたことをお伝えさせていただきます。子どもが亡くなったというと、悲しい話をするのではないかと殆どの方が思われるでしょうが、私は実際子供を亡くしておりますが、悲しさはありません。悲しさより、子どもがきちんと生ききったという想いの方が強いので、このようなお話をする活動もさせていただいております。
将は2歳の時に神経芽腫という小児ガンを発症しました。それまではとても元気な活発な子でした。まず発熱からはじまり、個人病院へ行きましたが、そこでは風邪と診断されました。しかし、なかなか熱が下がらず治らないままで、1か月程経つと食事もできず、動けなくなってしまいました。栄養点滴をしながら検査の為に一月ほど入院し、そこで初めて神経芽腫と診断されました。子どもが小児ガンだと言われて大変なショックを受けましたが、それよりも「漸く病名が分かった」という気持ちの方が強かったです。
当時、私達は鳥取に住んでいました。鳥取は日本で一番人口が少なく、小児ガンの発症率も少ない場所です。小児ガンというと、白血病や脳腫瘍、リンパ腫などが挙げられると思います。神経芽腫は小児ガンの中では2番目あるいは3番目に多い病気ですが、圧倒的に白血病が多いです。
当時の鳥取の病院でも、その病気を診たことがある先生はこの病院には居ないということを、看護師さんがそっと私に教えてくれました。そして、実家が愛知県にあるなら、そちらの方が医療も充実しているので、愛知県に行った方が良いとも言ってくれました。そこで愛知県の病院を探し、名古屋の病院へ変わりました。
名古屋の病院では、病気を治すために、手術や抗がん剤治療、骨髄移植も行いました。骨髄移植というのも非常に辛い治療になります。やはり抵抗力が低いので、骨髄移植をしなくなっていってしまうお子さんも何人も見てきました。骨髄移植という大きな目標に向かって1年間治療を行い、骨髄移植に成功して3歳の時に退院することができました。
しかし、がんというものはやはりなかなか治るものではありませんでした。退院後1年で再発してしまいました。
退院後は鳥取に戻っていましたので、1か月に1度、1泊2日で名古屋の病院に泊まって検査をするという生活を続けており、病院へ行くのもある意味では旅行気分でした。再発が分かった時も、いつもと同じように1泊2日で病院に旅行に行くつもりで出かけていました。その夜、寝ている時に、主治医の先生に呼ばれ、頭部のCTにぽつんと影が映っているのを見せられました。一見、ゴミが付いているのかと思うような黒い点でした。
先生にはこれが再発だと告げられ、1泊2日のつもりで来てもらったが、また長期入院をしなければいけないと言われました。
最初に病気が分かって入院した時は、将もぐったりしていたので、この病気を何とかして治したいと思い、積極的に治療をしてきました。しかし、再発が分かった時は、1泊2日の旅行気分でいた時だったように、子どももとても元気でした。さっきまで元気な男の子に見えていたのに、再発が分かった途端、「この子は病気の子なんだ」と、親である私の見る目も変わってしまいました。そして、先生と今後の治療方針について考えていくことになりましたが、この病気の再発を治す方法は無く、もしあるとしたら、それはもう1度骨髄移植をすることしかないと言われました。骨髄移植をすれば必ず治ると言われたならば、積極的にその方向へ進みましたが、2回目の骨髄移植は身体へのダメージも大きく、それに目の前にいる子どもは元気だったのです。明日は家に帰れると思って、すやすや眠っている我が子が、実は再発をしていて、今日から長期の入院をしなければいけない、そして骨髄移植をしなければいけない。骨髄移植をすれば、元気な男の子をまた長い間入院させなければいけない。
将には年子の弟がいます。小児病棟というのは、兄弟でも子ども同士は会うことができません。最初の入院の時の1か月間は、将の調子が良い時にたまに外泊をして、弟にはその時に会えるだけでした。弟は鳥取にいましたので、私自身もその時は我が子でありながら数回しか会うことができませんでした。退院して1年が経って、漸く兄弟として接することができたにもかかわらず、入院ということになれば、また兄弟が離ればなれにならなければいけなくなってしまう。私も漸く次男を甘えさせてあげられる生活ができるようになったのに、また離ればなれになってしまう。どうしたら良いのかと悩みました。
セカンドオピニオンで色々な病院へ行き、相談をもしましたが、どこの病院でも、再発したこの病気を治療するには、やはり骨髄移植しかないと言われました。
それでもやはり元気な男の子を病室のベッドに括り付けておくのは心苦しく思うばかりです。将の元気な姿を見ると、どうしても自分の心が、治療を頑張ろうという気になれずにいました。そしてまたどこかに糸口は無いかと、何とか明るい報告をしてもらいたいと思って、更に病院を巡ってみましたが、やはりどの先生も同じ答えでした。この病気はもう治らないんだ、うちの子は死んでしまうんだと思いました。目の前で子どもは元気にしているのに、親はその子どもの死を感じてしまっていました。可哀想な子だと思っていました。
しかし、ふと思ったのです。私は今までこの子のことを病気で可哀想だと思っていました。それは病気に目線を合わせていたからです。病気の息子、この子は病気だから可哀想、病気だから他の子のように遊べないと思っていたけれど、それは違う。
病気の前にこの子の人生を見よう、短いかもしれないけれど、この子がいつまでも明るく笑顔で、この子がこの子らしく生きられるように。この子の人生はこの子のものであって、私の人生ではありません。病気になってしまったのは子どもの人生だけれども、その子が苦しみながらではなく、僕の人生はずっと病院だったというのではなく、例え少し短くなってしまっても、家族が一緒に過ごせる日々を大切にしようと思いました。そして、移植=もしかしたら病気が治るかも知れないという治療はやめました。主治医の先生に頭を下げて、「すみません、骨髄移植はしません。この子が1日でも外での生活できるように、私は支えたいと思います」と言いました。「外での生活ができる」という言葉が出ること自体、おかしなことだと思います。2歳から3歳までを病院の中で過ごしていると、「外はいいね」「外に行きたいね」という言葉が口癖のようになっていました。
今、皆さんや私が普通に生活していることが、将にとっての外での生活で、それはとても羨ましい生活だったのです。外の空気を感じられる生活を一日でも長く送ってほしいと思い、病院での強い治療はやめて、進行を遅らせる程度の弱い抗がん剤投与を続けました。また、鳥取から名古屋まではやはり遠いので、私の実家のある豊橋へ
引っ越しました。1週間程の抗がん剤治療を行い、終わると家に戻り1か月程過ごし、また病院へ行って治療をするという生活を続けていました。その間、腫瘍マーカーという尿の検査や、血液の検査もしていました。
しかし、子どもの病気というのは急に進行が速くなります。小学校に上がるのも難しいと言われながらも、保育園に通い、何とか小学校に入学することができた頃だったと思います。名古屋の病院で投与を行い検査をした時には主だった異常はなかったのですが、その投与と投与の1か月半くらいの間に急に熱が出て目の奥に転移していたところが突起してきてしまいました。急遽、豊橋の市民病院の方に行きました。病歴も長いので、市民病院の先生とも話し合った上で、長く診てもらっている名古屋の病院の方が良ければ、すぐにでもそちらへ行ってくださいと言われました。鳥取からよりは名古屋に近いと思って豊橋に引っ越してきた訳ですが、豊橋に住んでしまうと今度は名古屋も遠く感じられてしまいます。市民病院の先生に状況をお伝えし、再発を知った時に、私が積極的な治療を選ばず、この子がなるべく家族で過ごすことができる選択をしてきたことを伝えました。お医者さんの立場では、この子の為に積極的な治療をしたいと思うのは分かります。しかし、子どもの病気の治療方針は、やはり親が決めなくてはいけませんし、それでどんなことがあっても自分の責任だと思っています。この子がなるべく兄弟と一緒に毎日を過ごせるようにしたいので、入院は極力少なくしてほしいとお願いしました。そこから市民病院にお世話になることになりました。
1年生になり、夏休みまでは小学校に通うことができました。8月から急に歩けなくなって、骨への転移、脳への転移などがあり、11月に天国へと旅立ってしまいました。こう伝えると、可哀想だったと思われるかもしれませんが、私は将から改めて大切なことを学ぶことができたのです。
まずは、感謝や思いやりというものです。感謝や思いやりというものがどういうものなのか、なかなか伝えることは難しいと思いますが、子ども達を見ていて私が感じたことをお話したいと思います。先程も申し上げました様に、入院中は兄弟でも会うことができませんでした。また弟達の面倒を見てくれる人も周囲に余りいなかったので、豊橋に来てからは養護施設にお世話になっていました。自分の入院中、養護施設で頑張っている弟達のことを、将は「元気かな」「風邪ひいてないかな」「寂しくて泣いてないかな」といつも言っていました。副作用などでどんなに辛くても、点滴や輸血で手が痺れてしまっても、嘔吐が20回以上続く日も、泣いたことは無かったのですが、弟達のことを思って泣いていました。いつも我慢させてしまっている弟達のことを思う時だけ涙を流していました。
ガンは最後にはやはり痛みを伴ってきます。特に骨への転移は薬でもなかなか痛みを抑えることができないそうです。最後は骨が蝕まれ、足首の骨が溶けて無くなってしまうくらい病魔に侵されていました。痛み止めやモルヒネを使ってもなかなか痛みが取れず、親ができることといえば、さすってあげることくらいしかありませんでした。それしかできないので、私自身はさすらせてほしいと思って、夜になってもずっとさすっていました。でも将は「お母さん、もういいよ。僕我慢できるから、その間お母さん寝てて」と言ってくれました。私は身体の調子が悪かったりすると、子ども達につい「静かにして!」などと言ってしまいますが、将は痛くても私にその様なことを言ったことはありません。「お母さん、いつもありがとう」と言ってくれました。また「お母さんに僕が痛いって言うとさするから、痛いって言わないでおくんだよ」と、看護師さんに言ったこともあるそうです。私は子供に気を使わせてしまっていたのです。
進行が目に見えて速くなってしまっている息子を横にして、病気のことを苦にすれば泣けて仕方がありません。私は、病気を気にはするけれど、苦にすることはやめました。それを自分に言い聞かせ、この子の横にいられること、一緒に過ごせることが幸せなのだと考え、いつも将の横にいさせてもらいました。
どんな時も、いつも感謝と思いやりの心を忘れずにいた将の最期の言葉は「お母さん、ありがとう」でした。最後の最後まで「ありがとう」を伝えてくれました。皆さんは「ありがとう」を伝えていますか? 何となく「言わなくても分かるだろう」という感じだったり、曖昧になってしまっていたりしますが、「ありがとう」という大切な言葉はなるべく伝えていきたいと思っています。
また、自分を思う強い心、自分は自分だという強い気持ちがありました。将には病気の為に食べられないものがありました。生のものは、ばい菌が付着している可能性があるので、食べられませんでした。自分は食べられないけれど、他の子ども達が食べているのを見て、「おいしい?」「どんな味がする?」と聞いていました。私なら、自分が食べられないものを目の前で食べて欲しくないと思ってしまいます。自分が病気でできないことがあるからと言って、それを他人に強制してはいけないのだと、将の姿を見てそう思いました。
そして泣き言を言わず、いつでも前向きでした。自分で決めたことは必ず実行する、そのように努力していました。辛い治療の副作用で嘔吐と下痢が続いていましたが、入院していない時に学校を休んだことは1日もありませんでした。嘔吐と下痢がひどいのだから、家でゆっくり休めばいいと思うのですが、「学校に行ける」ということが、将にとっては友達と会えるとても貴重な時間だったのです。どうしても吐き気があるので、自分でビニール袋を持って学校へ行っていました。ランドセルの中から嘔吐したビニール袋が沢山出てきたことがありました。それと一緒にパンツも沢山出てきました。ひどい下痢なので、自分でも無意識のうちに便が出てしまうことがあります。汚れてしまった下着を休み時間ごとにトイレで取り換えていたようです。私がそうするように言った訳ではなく、自分でそうしていたのです。
そこまでして学校に通っていたのですが、学校生活が楽しかったのかというと、将は楽しんでいました。でもやはり「ハゲ」とか「おばけみたい」とか言われるいじめもありました。ある時、1つ下の弟とこんな会話をしていました。弟の拓巳はお兄ちゃんのことが大好きなので、早くお兄ちゃんと一緒に小学校へ行きたいと思っていました。拓巳が「お兄ちゃん、小学校で『ハゲ』って言う人おる?」と聞くと、将が「おるよ。同じクラスの子は、入学式の時にお母さんが説明してくれたから言わんけど、他のクラスの子や、お兄ちゃんお姉ちゃんは言うよ」と答えました。「そうか。なら僕が小学校に上がったら、お兄ちゃんのこと守ってあげる」と拓巳が言うと、将は「僕のことは守らんくてもいいで、同じクラスの弱い子を守ってあげりん」と言いました。弱いからこそ、自分が辛い思いをしてきたからこその、優しさ、心からの言葉だったのではないかと思います。弟達は私の言うことは今でも聞きませんが、将が残したその言葉はきちんと聞いています。一緒に歩いたり、一緒に食事をしたりと、積極的に同じクラスの体の弱い子の面倒を見ているそうです。人を馬鹿にしない、弱い子は優しく守ってあげるというのは、弟達も私も将から学んだことです。
将がどのような言葉を残してきたのかをまとめた映像があります。これは将が亡くなってから、将が生きた証を残したいと、仙台の方が私のブログからピックアップして作ってくれたものです。私がこのような講演をするようになるとは思っていませんでしたので、個人的に作ってくれたものですが、お披露目したいと思います。
≪DVD 上映≫
私は将のように強く生きようとは思いますが、なかなかできないです。そして将が教えてくれたこと、将から感じたことというのは、当たり前のことです。人の悪口を言わないとか、今できることを一生懸命頑張るとか、そんな当たり前のことですが、ついつい当たり前の生活の上に胡坐をかいて忘れてしまう自分がいます。それを戒めてくれるのが、心の中にいる将の存在でもあります。
私はこのような経験をしたので、何とかそれが分かるような人間になりました。私は将を皆さんに伝えたいと思って講演をしているのではありません。将をきっかけとして、そのようなことにもう一度気づいてもらいたいという想いでお話をさせてもらっています。私はこれを仕事にはしていません。将から与えられた1つの手段であり、ただの1つの経験です。そこから思ったことを伝えているだけです、今でも病気で頑張っている子達、小さいながら死と向き合っている子達は沢山います。「どうしてそんなに明るいの?」と言われることがありますが、私は将に恥じないように生きたいのです。「お母さん、頑張ったね」と言ってもらえるように日々過ごしています。皆が元気で会社に来てくれたり、お子さんやお孫さん達が元気に成長するということを、ついつい当たり前のことだと思ってしまいますが、実は当たり前のことではないのです。
短い時間ではありましたが、将の一生を通じて私が感じたことをお話させていただきました。あまり上手に話をすることはできませんが、このような話がもしどこかでお役に立つのであれば、いつでも声をかけていただければと思います。ありがとうございました。

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