2019年1月1日
2019年1月1日
職業奉仕について考える
1月は職業奉仕月間である。ロータリーの友の1月号にも『今に生きる職業奉仕』と特集が組んである。今回はこの職業奉仕について考えてみる。
職業奉仕については、まずその言葉の意味が難解であるという方や、漠然と自分の行っている職業(事業)で奉仕することと思っている方が多いと感じている。
その他の社会奉仕や国際奉仕、青少年奉仕、クラブ奉仕は『社会に対して奉仕すること』のように、間に『対して』と入れると説明がつくのであるが、職業に対して奉仕するとしたら意味が通じなくなる。そこで職業を通じて奉仕すると一般に言われているが、これでは職業が手段になり、職業を通じて社会に奉仕することでも、青少年に奉仕することでも良くなってしまう。このあたりが難解にしている要因の一つであろう。
職業は自分に対して利益を求めることであり、奉仕は相手に対して行うことであるから、方向性の違うものを重ね合わせた言葉が職業奉仕である。これは相手に良質な奉仕をすれば、それにより自分も良くなる(利益をもたらす)ということだとの解釈がされている。
アーサー・フレディック・シェルドンの『He Profit Most Who Serves Bes t』(2010年規定審議会でHeはOneに変更)という言葉の説明がこのことである。
私は自身の冊子「超入門 職業奉仕の入り口」で『奉仕の心をもってあなたの職業を営みましょう』と解説をしてみた。
事業の経営理念として相手(顧客・消費者)のことを考えた商品・サービスを提供し、企業として倫理観を向上させることをしなさい、儲かるから損をしないようにと、悪いこととは知っていながら、商売の道から逸脱し法を犯す判断をしないこと、これらのことを身に付けるのが職業奉仕であると解釈もできる。
私はこの考えが事業経営者に受け入れられ、日本でロータリーが発展していった大きな原動力になったと思う。ロータリアンになることで、他の奉仕団体にはない、サービスや倫理の概念が身に付き信用度が上がるという、崇高な経営を目指す人の集いの要素があったのは確かである。
このことにより、ロータリーは職業奉仕で各自の事業で高度な倫理性を持った奉仕をすれば良いのであって、団体で行う社会奉仕のようなことをしなくても、それは良いのだと考えている会員が数少なくないことも現実である。
さらには、アイサーブを強調することで、ウィサーブの団体奉仕をしない言い訳と言われても仕方ない、E a t & R u n会員と呼ばれる例会に出席しおしゃべりして帰るだけの会員もまだ多くいると聞くことがある。
そうでなくても、『職業奉仕こそがロータリーの根幹、金看板である』と他の奉仕よりも上位概念と位置づけした卓話を聞くことが多いので、専ら自らの事業としての奉仕のみで事足りている、と思っている会員が多いのが現状であろう。
職業奉仕が無ければロータリーが他の奉仕団体と変わりがない、とか職業奉仕は他の奉仕に比べ上位概念であるとの思想が日本には根付いている。
私は、このことのとらえ方を全否定はしない、と言うより個人的には肯定している。
しかし、世界のロータリアンはどの奉仕も大切にし、特に上位概念を持たず区別をしなくなってきている。現実には奉仕を受ける側からすれば、奉仕の種類など関係ないことであろう。奉仕する側の理屈と言ってしまえば身もふたもない話だが。
例えば、パン屋さんが良質なパンを焼いて商売するのが職業奉仕、パンを焼いて施設に配るのは社会奉仕、パンを焼いてパンの焼き方や作り方を子供たちに指導するのは青少年奉仕、と解釈されると思う。
しかし、パンを焼いていることには違いはない、それをこちらの理屈というか、都合で区別しているようにも考えられる。
事実、RI理事会では社会奉仕と職業奉仕と青少年奉仕を同一の奉仕とグループ化することになってきている。
これらのことを踏まえて私は次のように職業奉仕を考えてはと思う。
ロータリーの奉仕の理念とはどのような奉仕活動か、それは職業奉仕を上位概念とするものかということと、商品・サービスを通じて顧客に奉仕し、自らの職業倫理の向上を図るという事業を営む上での考え方としての職業奉仕、とのふたつである。
分けては考えにくい問題ではあるのだが、いかがであろうか。